宇多天皇が息子である13歳の醍醐天皇に譲位した際、
天皇としての心構えを書き与えたもの。重要文化財です。
時平や道真の評価について述べた箇所を中心に展示されています。
現在は書き下しの抜粋が貼られていますので、該当箇所を探すのは楽だと思います。
(写真提供:九州国立博物館)
詳しい内容は「山陰亭」で書きましたので、
ざっと箇条書きにしますと、「左大将藤原朝臣」こと時平は、
- 功績ある臣下の子孫で、臣下の筆頭である(←藤原摂関家の嫡流)
- (27歳と)若いが政治に熟達している
- 去年女性問題を起こしたが、責めず、むしろ励ました
とあります。また「右大将菅原朝臣」道真は、
- 偉大な学者で政治にも明るい
- 自分をいさめたので、序列によらず登用し、功績に応えた
- 醍醐天皇を皇太子に選んだ際、唯一の諮問相手だった
- 譲位を内密に打診した時、時期尚早だとして猛烈に反対された
- 譲位の準備中に情報が漏れたが、延期せずに決行するよう勧められた
- つまり自分の忠臣ではなく、新帝の功臣である
とのこと。
時平については血筋どころか失態にまで言及しているのに対し、
道真はその能力以上に「皇太子の選定」「譲位時期の決定」という、
重大事項にただ一人関わった人物である事を明らかにしています。
それだけ信頼に足る人物であると宇多天皇は考えていた訳ですが、
裏返せばキングメーカーにもなりかねないという事。
朝廷の中枢部を二部する藤原氏や源氏が知れば、
「我々のような家柄の高い者を差し置いて、なぜあの学者上がりを!」
という反応を巻き起こしますし(実際そうなりました)、
醍醐天皇との信頼関係が宇多天皇に対するほど強固でなければ、
「あいつ裏側で一体何をやってるんだ……?」
という疑惑を持たれかねません。
どなたの説だったか忘れてしまったのですが(重要な事なのに!)、
「時平の身内の女性が醍醐天皇の皇子を生んでしまわないうちに
次の皇太子を立てようと宇多上皇が考え、
弟宮斉世(ときよ)親王がその候補に挙がったのを知り、
醍醐天皇が先手を打った」
のが道真左遷の背景ではないかとの見解を最近読みまして、
藤原穏子(時平の妹)の入内をめぐって宇多と醍醐が対立していたことを考えると、
それも充分考えられる線だと思いました。
相手が目上だろうが迎合せず、大局的見地に立って、
良いか悪いか、反対か賛成かを決める道真のスタンスは、
いかにも理想的な臣下の姿ではありますが、
「天皇のお気に入りの側近」という部分がクローズアップされると、
非常に危険だなという気がします。