死を目前にして紀長谷雄に詩巻を託した巻4末尾から、少し時間は遡ります。
無実を天に訴えるべく、道真は大宰府郊外にある山へ登る事にしました。
自らしたためた祭文(さいもん)を山頂で掲げ、一心不乱に祈りを捧げていると、
祭文は虚空へ高く舞い上がりました。
梵天(ぼんてん)と帝釈天(たいしゃくてん)が彼の願いを聞き入れたのです。
天満大自在天神(てんまだいじざいてんじん)の名を与えられ、
道真は生きながら神となりました。
そして、この山は後に天拝山(てんぱいざん)と呼ばれるようになりました。
(写真提供:九州国立博物館)
「軟禁状態に置かれた病弱の老人」という背景により、
この話はあくまでもフィクションたりえます。
しかし、道真の死後2世紀後にはすでに存在した話であったらしく、
院政期の学者・大江匡房(おおえのまさふさ)の
言談録『江談抄(ごうだんしょう)』に触れられています。
匡房は大宰権帥(高官の左遷用ポストではなく、実際に職務を遂行する権帥)として
現地に赴任した経験があり、詩文を読むと、
他にも天神縁起の母体となる話をいくつか知っていた事が伺えます。
ところが、その彼をしても、
現代日本人にとって最も有名なはずの飛梅の話は語られていないのです。
匡房より後に成立した天神縁起の、さらに後で生まれた話だから当然ではありますね。