これは必見!(その38) 

37「北野天神縁起絵巻(承久本)」 (14)巻5「雷神襲来」

承久本には2度、雷神が雷を落とすシーンが描かれています。これはその最初のほう。
元ネタは『大鏡』時平伝です。

道真が死して神となり、清涼殿に雷を落とそうとした時、
左大臣時平は太刀を抜いて仁王立ちになり、虚空に向かってこう叫びました。

「生前でも私の下座だったでしょうが!
 たとえ神になられても、この世では私に遠慮するのが筋です!」

この言葉に一度は雷も収まりましたが、時平が偉いのではなく、
道真公が臣下としての秩序を示しただけの事だとか。

時平と道真の直接対決を描いたこの話、実は全くのフィクションなんです。
清涼殿が被災して死傷者が出たのは930年6月26日の一度きり。

どこでしたか、
「雷の鳴る最中に太刀なんか抜いたら、格好の避雷針になるだろう」という
ごもっともなツッコミを読んだ時は、思わず笑ってしまいました。

これは必見!(その37) 

37「北野天神縁起絵巻(承久本)」 (13)巻5「神霊化来」

時は901年の夏、所は比叡山延暦寺。
高僧・尊意(そんえ)の耳に、自室の扉を叩く音が響きました。
真夜中という時間帯を怪訝に思いながら扉を開けた途端、尊意は我が眼を疑いました。
訪問者は、今年の春に死んだはずの道真公。

しかしそこは良くしたもの、冷静を装って部屋の中に招き入れました。
まずは黙って相手の言い分を聞き出そうと試みたのです。
来客に取りあえず勧めたのは、旬にはまだ早いザクロの実。

「復讐にあたって、梵天と帝釈天の許可を得た。
 例え天皇からの命令であっても、私を阻止するような事はしないで欲しい」。

はっきりと宣戦布告の意思を聞かされた尊意は、明快なまでに拒否しました。

「そう言われましても、二度三度と出動要請があれば、断る事はできません」。

道真は激怒し、とっさにザクロをつかみ、
口に含んだかと思うと、種ごと吹き出しました。

種は炎となって燃え上がり、傍らの戸に引火します。
尊意も臆せず印を組み、指先から水を放ちます。

攻撃を簡単にかわされてしまい、道真は悔し紛れに姿を消しました。

同じ画面に異なる場面を描くことで時間の推移を示す異時同図法を採用した
承久本のこの場面は、個人的には大好きなシーンです。
優美な正装でドアを律儀にノックする姿が、
いかにも生真面目な彼らしいという印象を受けるのです。

怨霊の火炎放射に僧侶が放水攻撃で応戦する光景が面白い、という声も出そうですね。

これは必見!(その36) 

37「北野天神縁起絵巻(承久本)」 (12)巻5「安楽寺葬送」

「遺骨は京都に送り返さないで欲しい」という遺言に従い、
道真の亡骸は大宰府の地に埋葬されることになりました。
しかし途中で遺体を載せた牛車が動かなくなってしまったため、
その場で荼毘に付されました。この場所が現在太宰府天満宮のある場所です。

生前、いくら故郷を慕っても、異郷の地に葬られるであろうことを
危惧していたはずの道真は、最期に自らその選択肢を選びました。

太宰府天満宮本殿裏手


神霊の魂を祀る場所が、同時に魄(肉体)を祀る、
霊廟と仏舎利(ぶっしゃり・釈迦の遺骨)を合わせ持つような天満宮安楽寺の歴史は、
祭神の一言から始まったのでした。

これは必見!(その35) 

37「北野天神縁起絵巻(承久本)」 (11)巻5「祈天拝山」

死を目前にして紀長谷雄に詩巻を託した巻4末尾から、少し時間は遡ります。
無実を天に訴えるべく、道真は大宰府郊外にある山へ登る事にしました。

自らしたためた祭文(さいもん)を山頂で掲げ、一心不乱に祈りを捧げていると、
祭文は虚空へ高く舞い上がりました。
梵天(ぼんてん)と帝釈天(たいしゃくてん)が彼の願いを聞き入れたのです。

天満大自在天神(てんまだいじざいてんじん)の名を与えられ、
道真は生きながら神となりました。
そして、この山は後に天拝山(てんぱいざん)と呼ばれるようになりました。

祈天拝山

(写真提供:九州国立博物館)


「軟禁状態に置かれた病弱の老人」という背景により、
この話はあくまでもフィクションたりえます。
しかし、道真の死後2世紀後にはすでに存在した話であったらしく、
院政期の学者・大江匡房(おおえのまさふさ)の
言談録『江談抄(ごうだんしょう)』に触れられています。

匡房は大宰権帥(高官の左遷用ポストではなく、実際に職務を遂行する権帥)として
現地に赴任した経験があり、詩文を読むと、
他にも天神縁起の母体となる話をいくつか知っていた事が伺えます。

ところが、その彼をしても、
現代日本人にとって最も有名なはずの飛梅の話は語られていないのです。
匡房より後に成立した天神縁起の、さらに後で生まれた話だから当然ではありますね。

これは必見!(その34) 

37「北野天神縁起絵巻(承久本)」 (10)巻3「紅梅別離」

901年2月1日、道真は慌ただしく都を出立する事になりました。
出発を前に、自宅の梅に惜別の情を込めてこう呼び掛けました。

  東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな

この歌に感応した梅は、やがて一夜で海を越え、大宰府に着いたとされ、
現在も太宰府天満宮に咲く飛梅(とびうめ)のルーツになっています。

こう書くと、「『春な忘れそ』ではないですか?」という声が必ず上がります。
ただこれを説明すると長くなるので、今回は控えたいと思います。
一言で書けば「とりあえず『拾遺集』を見て下さい」となりますね。

これは必見!(その33) 

37「北野天神縁起絵巻(承久本)」 (9)巻3「法皇佇立」

901年1月25日、右大臣菅原道真を大宰権帥(だざいのごんのそつ)に左降する
宣命(せんみょう)が出されましたが、宇多法皇がそれを知ったのは数日後でした。

醍醐天皇に翻意を促そうと、法皇は慌てて内裏に駆けつけます。
しかし厳戒態勢の宮中には、どうしても立ち入る事ができませんでした。

木のかたわらでなすすべもなく立ち尽くす法皇。
その前にひれ伏すのは、蔵人頭(くろうどのとう)藤原菅根(すがね)です。

彼は道真の弟子ですが、天皇の即位前からの側近でもあり、
忠実な官房長官として職務をまっとうする道を選びました。
この直後、法皇の参内を妨げたとして、大宰府に左遷されますが、
あくまで形式上の措置であり、すぐ京官に復帰しています。

これは必見!(その32) 

37「北野天神縁起絵巻(承久本)」 (8)巻3「行幸密議」

会期後半に展示されるのは巻3と巻5。今回から順番にあらすじを書いてゆきます。

醍醐天皇は父宇多法皇の御所を訪れ、両者の間で極秘会議が開かれました。
その結果、呼び出されたのは左大臣藤原時平ではなく、右大臣菅原道真。

「そなたを関白に任じようと思う」。

この言葉に道真は驚愕し、ただひたすら固辞するばかりでした。

呼ばれた口実を作るため、道真は詩の題を賜ってから公卿の控え室に戻りましたが、
自分を差し置いて呼び出された事に対し、時平は不満の色を隠せませんでした。

行幸密議

(写真提供:九州国立博物館)


道真を関白に任じようとしたが、未遂に終わったという話は、
安楽寺の巫女の託宣に出てきますが、真偽の程は定かではありません。

ただ、「寛平御遺誡」の内容でも分かるように、宇多院と道真の君臣関係は、
あまりに親密すぎて周囲の邪推を買う余地があったのは事実です。

展示部分は行列に従う人々の姿が延々と続きますが、本題は左端にちょっとだけ。
室内に座す天皇と法皇の前に、平伏する正装の道真。

この無意味なまでの冗長さが、承久本の特色でもあります。

これは必見!(その31) 

18「菅家後集(かんかこうしゅう)」

大宰府時代の作品を中心とした道真の漢詩集です。全1巻。

道真の作品を読む場合、この作品集、
とりわけ「九月十日」あたりから入るケースが多いと思います。
しかし江戸時代においては、なかなか活字化されなかった事もあり、
知識人にとって「名前は知っているが実際に見た事はない」古典でした。
(それどころか、現代では「名前も知らない」古典ですね……。)

今回展示されるのは尊経閣文庫が所蔵する、前田家甲本と呼ばれる写本。
現存する後集の中で最も良いものとされ、
日本古典文学大系(岩波書店)の底本にも用いられています。

その奥書によれば、もともとの題は『西府新詩(さいふしんし)』でした。
西府とは平安京のはるか西に位置する大宰府のこと。
臨終を前に、大宰府で作った漢詩のうち、
「自詠」から「謫居春雪」までの39首を一巻にまとめ、
都にいた紀長谷雄(きのはせお)へ送ったものです。
長谷雄は異郷に果てた才能を惜しみ、後世にもその名が残るだろうと評しました。

その後、冒頭部に右大臣時代の詩を増補したのが、現在の『菅家後集』です。
道真自身が命名した『菅家文草(かんかぶんそう)』と
対比して名付けられたのでしょう。

最後に手元に残されたもの=漢詩と孤独に向き合った記録なので、
人によっては「消極的」「情けない」という印象を受けるかもしれません。
でも、自分の傷をえぐるような事はなかなか書けないんですよね、普通。

「私はここにいる」。その響きにちょっと寄り添ってみるのも良いものですよ。

これは必見!(その30) 

39「メトロポリタン本 北野天神縁起絵巻』 (2)

アメリカ・メトロポリタン美術館蔵の天神縁起絵巻より、異界巡歴譚の続きです。

太政威徳天(道真)に会った際、
道賢(どうけん)は「日蔵(にちぞう)」という名前を与えられます。
その後仏教世界を巡り、地獄の入口にたどり着きます。

メトロポリタン本

(写真提供:九州国立博物館)


燃えさかる業火を前に、茶色の着物を着て合掌している山伏が日蔵。
頭や尾がいくつもある巨大な動物は、地獄の門番です。

さて、その地獄には出家したはずの醍醐天皇が堕ちていました。
衣装はいちおう身につけていますが、頭には何もかぶっていません。
頭にカブリモノをせず、もとどりを人目にさらすことは、
平安時代の貴族にとって非常に恥ずかしいことなのです。
後ろに従う3人の男性は、全裸なのか、すでに体中がすすけて誰か見当もつきません。

炎の中、醍醐天皇は日蔵に告げます。
「道真を左遷し、父親(宇多法皇)を裏切り、弟(真寂法親王=斎世親王)との仲を
 裂いたことでこのような目に遭っている。
 どうか息子(朱雀天皇)に写経をするよう伝えてほしい」。

現世に帰った日蔵は、このメッセージを朱雀天皇に奏上したのでした。

この物語、兄弟を殺して皇帝となった唐の名君・太宗(たいそう)が、
死後地獄に堕ちたという中国の説話を元に作られた話と言われています。

これは必見!(その29) 

41「松崎天神縁起絵巻」

重要文化財。防府(ほうふ)天満宮に奉納され、現在までそのまま伝わっています。
通常は境内の宝物館で展示するところ、
補修のため、現在は京都国立博物館に預けられています。

松崎天神縁起

(写真提供:九州国立博物館)


ごくたまに京博の常設展に出るのですが、
肝腎の京博が年末から建替工事に入るため、しばらく一般公開はお預けです。

松崎本は物語が完結している上に色彩も良く残っています。
また、絵巻物の全集類に収録されているので、図書館で手軽に見る事ができます。

天神縁起は冒頭部分の言い回しで大きく4つに分類されます。
そのうち、承久本、あるいはそれに先行する文字のみの天神縁起(建久本・建保本)は、


王城鎮守神々多くましませど、北野の宮の利生(りしょう)殊に優れて、
朱(あけ)の玉垣に再拝する人、現当(げんとう)の願ひ、
歩みに従ひて道一念を致して、……


とあるのに対し、松崎本や弘安本(図録40、重要文化財)は、


漢家・本朝霊験不思議一にあらざる中(うち)に、
北野の天満大自在天神の御事、在世・滅後、奇特はなはだ多し。……


となっています。

前者の方が古い形ですが、
後者は縁起本文・絵の構図ともに定型化してこなれた形を持つため、
天神縁起絵巻の入門編として非常に向いています。

弘安本

(写真提供:九州国立博物館)

10/26まで展示されていた弘安本の冒頭部。
図録ではなぜか最初の1行がカットされています。


さて今回展示されるのは、「紅梅殿別離」と「恩賜の御衣」という王道路線です。

大宰府下向を目前に控え、
軒端に咲く紅梅と山桜(もちろん桜の季節では到底ないのですが)に向かい、
右から左へ流れる絵巻のセオリーに逆らって画面左から右方向を見やる道真。

硯箱を前に、御衣を左に置き、袖で目頭を押さえる道真。

華やかな植物の描写とは裏腹に、どこか一抹の寂しさを感じさせる筆致です。
posted by Michiza.net | トラックバック(0) | カテゴリ:展示品の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

これは必見!(その28) 

51「束帯天神像」

荏柄天神社の誇る(?)巨大な「雲中(うんちゅう)天神」の掛軸です。
幅135cm、高さ189.5cm。いわば実寸大の天神画像です。

アイキャッチ的な飾られ方をするだろうと期待していたら、
予想通り、観世音寺梵鐘の次、展示室の入口すぐの場所に展示されていました。

束帯天神

(写真提供:九州国立博物館)


雲中天神については先に書いてしまいましたので、宣言通り昔話をします。
「懐古談なんかどうでもいいから、次の展示品を出せ!」という前向きな方は、
下の文章は無視して1日だけ待って下さい。明日があります。

2001年7月10日午前8時30分、
東京上野・東京国立博物館付近に、10数名の若者達が集まっていました。
彼らのお目当ては、この日から始まる特別展「天神さまの美術」。

その中に、格安のツアーバスで上京した筆者と、首都圏在住のY先輩の姿がありました。
少しずつ、少しずつではありますが、次第に増えていく人を、
穏やかとは言いがたい朝の陽光を木陰に避けつつ眺めながら、ぼそりと一言。

「せっかくなので一番乗り狙いますが、どうします?」

この年の春、特別展「北野天満宮神宝展」の初日に京都国立博物館に行ったところ、
正面入口でただ一人待っているうちに開館時間になったという顛末がありました。
それに対し、待ち伏せ組が出揃う状況に、俄然やる気になったのです。

「いや、後からゆっくり行くので……。頑張ってね」

そんな遠慮深い声援(冷静な反応?)を背に、門の付近に陣取りました。

午前9時前、開門。
周囲を無視してスタートダッシュを掛けたはずが、
目の前をさっそうと駆けてゆく女性がひとり。
ええ、自慢じゃないですが、情けない程足が遅いです。

「こんな馬鹿げた事を考える奴が何で他にもいるんだ〜!?」と心の中で叫びながら、
「ああ、やっぱり徒競走では勝てそうにない……」と自分の身体能力を嘆きながら、
それでも必死で後をついて行くと、
「ここから入ると遠回りになるので、○○から入って下さい」
という看板が目に入りました。
前方の彼女は、「遠回り」と指摘された、その道へ走っていきます。

「これって逆転勝ちかも……!」
ガッツポーズを取りたい気持ちをこらえ、一見大回りに見える近道に突入。
果たせるかな、会場入口に最初にたどり着いたのは筆者の方でした。
まあ相手の失着で勝ったようなモノなので、あんまり自慢にはなりませんね。

取りあえず所定の目的は果たしたので、入口で先輩が来るまで待機。
ごく普通に徒歩でやってきた先輩と合流し、意気揚々と会場に入ると、
さっそく出迎えてくれたのは、この絵だったのです。

「ええ、来ましたよ、道真さん!」
絵を前に、そう言い切ってしまいたい気分でした。

特別展の前日に開会式と内覧会がある事を当時は知らなかったので、
こんなふざけた先陣争いを本気でやっていたのですが、
開会式に招待されれば人より早く見られることを覚えた今は、もうやりません。

これは必見!(その27) 

58「天神名号および束帯天神像」

後陽成(ごようぜい)天皇(1571〜1617)の「南無天満大自在天神」の文字と、
福岡藩主黒田綱政(つなまさ)(1659〜1711)の束帯天神の絵のコラボです。
地元ネタではありますが、
つい最近まで福岡市立博物館で黒田長政展をやっていたのとは、
おそらく無関係でしょう。

天神名号および束帯天神像

(写真提供:九州国立博物館)


1世紀前の後陽成院の宸筆(しんぴつ)(天皇の直筆)を入手して
綱政は大喜びで自ら絵を描き、その上に宸筆を貼りました。

江戸時代ともなると、落ち着いた表情で梅と松を背に上畳の上に座す、
定型化した姿で描かれてはいますが、
それでも笏を上から押さえ付けるしぐさだけは、記号として残っています。

天神は連歌の守護神としても知られ、
宮中でも毎月25日に北野法楽連歌(きたのほうらくれんが)が催された記録があります。
この軸も、福岡藩主が主催する正月の連歌の席で実際に掛けられていたとのことです。

天神名号

(写真提供:九州国立博物館)

なお、会期前半には、北野天満宮が所蔵する別の宸筆が単体で展示されていました。
(画面右)

これは必見!(その26) 

80「天神名号(てんじんみょうごう)」

第一印象は「このヘラ書きのような字は何?」だったのですが、
かの林羅山(はやしらざん)の師、藤原惺窩(ふじわらのせいか)の筆跡でした。
日本における儒学の先駆者の字を、一瞬でも「変」だと思うとは、何たる無学。

天神名号

(写真提供:九州国立博物館)


この文字列は「南無 天満大自在天神(なむ てんまんだいじざいてんじん)」と読みます。
「南無」は「信仰する」という意味の仏教語。
ほら、「南無 阿弥陀仏(なむ あみだぶつ)」とか
「南無 明法蓮華経(なむ みょうほうれんげきょう)」とか唱えますでしょう?

シヴァにして観音の化身たる大自在天(だいじざいてん)の名を冠するように
天神信仰は当初から仏教色が強いのですが、
天神名号がことごとく同じフレーズで書かれていることを目の当たりにすると、
やはり神仏習合の産物だったんだと思わされます。

これは必見!(その25) 

10「寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)」 (〜11/16)

宇多天皇が息子である13歳の醍醐天皇に譲位した際、
天皇としての心構えを書き与えたもの。重要文化財です。

時平や道真の評価について述べた箇所を中心に展示されています。
現在は書き下しの抜粋が貼られていますので、該当箇所を探すのは楽だと思います。

寛平御遺誡

(写真提供:九州国立博物館)


詳しい内容は「山陰亭」で書きましたので、
ざっと箇条書きにしますと、「左大将藤原朝臣」こと時平は、

  • 功績ある臣下の子孫で、臣下の筆頭である(←藤原摂関家の嫡流)
  • (27歳と)若いが政治に熟達している
  • 去年女性問題を起こしたが、責めず、むしろ励ました

とあります。また「右大将菅原朝臣」道真は、

  • 偉大な学者で政治にも明るい
  • 自分をいさめたので、序列によらず登用し、功績に応えた
  • 醍醐天皇を皇太子に選んだ際、唯一の諮問相手だった
  • 譲位を内密に打診した時、時期尚早だとして猛烈に反対された
  • 譲位の準備中に情報が漏れたが、延期せずに決行するよう勧められた
  • つまり自分の忠臣ではなく、新帝の功臣である

とのこと。

時平については血筋どころか失態にまで言及しているのに対し、
道真はその能力以上に「皇太子の選定」「譲位時期の決定」という、
重大事項にただ一人関わった人物である事を明らかにしています。

それだけ信頼に足る人物であると宇多天皇は考えていた訳ですが、
裏返せばキングメーカーにもなりかねないという事。

朝廷の中枢部を二部する藤原氏や源氏が知れば、
「我々のような家柄の高い者を差し置いて、なぜあの学者上がりを!」
という反応を巻き起こしますし(実際そうなりました)、
醍醐天皇との信頼関係が宇多天皇に対するほど強固でなければ、
「あいつ裏側で一体何をやってるんだ……?」
という疑惑を持たれかねません。

どなたの説だったか忘れてしまったのですが(重要な事なのに!)、

「時平の身内の女性が醍醐天皇の皇子を生んでしまわないうちに
 次の皇太子を立てようと宇多上皇が考え、
 弟宮斉世(ときよ)親王がその候補に挙がったのを知り、
 醍醐天皇が先手を打った」

のが道真左遷の背景ではないかとの見解を最近読みまして、
藤原穏子(時平の妹)の入内をめぐって宇多と醍醐が対立していたことを考えると、
それも充分考えられる線だと思いました。

相手が目上だろうが迎合せず、大局的見地に立って、
良いか悪いか、反対か賛成かを決める道真のスタンスは、
いかにも理想的な臣下の姿ではありますが、
「天皇のお気に入りの側近」という部分がクローズアップされると、
非常に危険だなという気がします。

これは必見!(その24) 

63「束帯天神像」(画面左)

常盤山文庫(ときわやまぶんこ)蔵。何と現存最古の束帯天神像です。
南北朝時代の1360年に製作されました。

笏(しゃく)を上から押さえ付け、眉をつり上げてやや上方をにらむ、
怒り天神の図です。ちょっとマンガチックな顔つきですね。

束帯天神像

(写真提供:九州国立博物館)


漢詩と和歌が2首ずつ書き込まれていますが、
上半分の漢詩1首・和歌1首が天神の神詠とされるものです。

まずは漢詩から。

昨(きのう)は北闕に悲しみを被(かぶ)る士となり
今は西都に恥を雪(そそ)ぐ尸(しかばね)と作(な)る
生きての怨み死しての喜び それ我をいかんせん
今はすべからく望み足りて皇基(こうき)を護(まも)るべし

少々長くなりますが、順を追って説明します。
903年に従二位(じゅにい)大宰権帥(だざいのごんのそち)で亡くなった後、
923年に醍醐天皇の命によって右大臣の地位を回復され、正二位を贈られました。

その後、993年になって、朝廷は
子孫である菅原幹正(もとまさ)を安楽寺(現在の太宰府天満宮)に派遣して
正一位(しょういちい)左大臣を追贈したのですが、
左遷につながる「左」という文字が故人のお気に召さなかったようで、
こんな漢詩を書いた紙が忽然として出現したと言います。

たちまちに驚く 朝使の荊棘(けいきょく)を排(ひら)くに
官品(かんぽん)高く加はりて排感(はいかん)成(な)る
仁恩(じんおん)の邃窟(すいくつ)に覃(おお)ふことを
 悦(よろこ)ぶといへども
ただ羞(は)づらくは存しても没しても左遷の名

(こんな田舎にまで恩恵が及んで官職を頂けるのはありがたいが、
 生前も死後も「左に遷(うつ)される」のはちょっと……、位の意味です。)

挙句の果て、安楽寺の巫女に道真の霊が乗り移って、
「左大臣の位など受けぬ!」と拒絶したので、
さらに太政大臣を贈ったところ、ようやく納得したのか、
巫女の口を通じて上記の七言絶句が得られたという次第です。

束帯天神

(写真提供:九州国立博物館)


45「筑後国北野天神縁起絵巻」巻下より、
正一位左大臣追贈のため安楽寺を訪れた菅原幹正。会期後半に展示されています。

そして和歌。

宵の間や都の内に澄みつらん 心尽くしの有明の月

こちらはとっさに元ネタが出てきませんでした。ごめんなさい。
おまじないの文句として、良く似た和歌が使われてはいるようですが……。

さて、今回、所蔵元として常盤山文庫の名前がしばしば見えますが、
これは菅原通済(みちなり)(1891〜1981 )という実業家の
コレクションを集めた施設です。
同姓のよしみか、父親の代から美術品として鑑賞に耐える
天神縁起・束帯天神像・渡唐天神像などを収集しており、
百貨店で展示を催したこともありました。

ただ、現在は防災上の観点から非公開となっており、
収蔵品は外部貸し出しの形でようやく見ることができます。

最近まとまった形で公開した機会は、
1998年に根津美術館で開かれた「天神さまの美術」ぐらいのものでしょうか。
(没後1100年記念の特別展と同じ題ですが、先行するものであり、全く別物です。)

あと2003年に常盤山文庫の創立60周年記念展がやはり根津美術館でありましたので、
こちらにも出ていた可能性は高いですね。

これは必見!(その23) 

46「天満宮縁起絵巻」

特別展開催に向けての準備中に、所蔵元である対馬の神社からから問合せがあり、
その存在が明らかになった天神縁起です。

おそらく論文にはなっていないので、新聞報道や図録解説を参考に説明しますと、
地元の話題を盛り込んだ、いわゆる「ご当地縁起」色が極めて強いものです。

「道真伝」「怨霊譚」「霊験譚」の3部からなる天神縁起の基本構成から霊験譚を省き、

「川面に姿を映して落魄した身の上を嘆く道真」 (←水鏡天神)
「麹(こうじ)米を食事にと道真に差し出す老女」(←梅ケ枝餅のルーツ)
「天拝山への道すがら、鉄斧を砥(と)いで針にしようとする老人に出会い、
 努力の重要性を思い知らされる道真」(←針摺峠(はりすりとうげ)の地名の由来)

など、地元福岡・太宰府ゆかりの話題を盛り込んでいます。

天満宮縁起絵巻

(写真提供:九州国立博物館)

※写真は前期のもので、綱敷天神と麹米です。後期は水鏡天神と恩賜の御衣。


類型化の容易な、従来の天神縁起とは明らかに異なるという印象を受けます。
太宰府天満宮蔵の元禄本「天満宮縁起」という文章のみの天神縁起をベースに
絵巻化したものとのことです。

図版でいいので、25段(←天神縁起は33段が基本なので、やっぱり異質です)
まとめて見てみたいですね。章段構成が非常に気になります。

これは必見!(その22) 

77「文字絵渡唐天神像」

本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)・松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)とセットで
「寛永(かんえい)の三筆」と称される能書家にして公家、
三藐院(さんみゃくいん)こと近衛信尹(このえのぶただ)(1565〜1614)の作です。
左下隅の筆を取り落としたような跡は、書き損じではなく作者のサインです。

文字絵渡唐天神像

(写真提供:九州国立博物館)


今回展示されるのは、1610年に描かれ、北野天満宮が所蔵するものですが、
同様の絵があまりに数多く存在するので、
「一家に一台」ならぬ「一社に一枚」あるのではないかと評された事もあります。

信尹には、豊臣秀吉の朝鮮半島出兵に賛同して肥前に出兵したことが原因で
後陽成天皇の逆鱗に触れて薩摩坊津(ぼうのつ)に配流された時期があり、
それが制作のバックボーンにあるとも言われています。

彼の渡唐天神像が他のものと大きく異なるのは、その図様にあります。
冠を「天」、衣を「神」の字で見立てた墨一色の文字絵になっています。
裏を返せば、こんなにシンプルな描線だからこそ、大量に描けたとも言えます。

上に書かれた文章は、
「唐衣(からころも)折らで北野の神とぞは 袖に持ちたる梅にても知れ」という、
天神が無準師範(ぶしゅんしばん)に対して詠んだとされる
渡唐天神説話につきものの和歌です。
この和歌に従い、渡唐天神は梅の枝を持った姿で描かれるのが基本ですが、
なぜか三藐院は枝を持たせていませんね。

文字絵の渡唐天神には、
臨済宗中興の祖、白隠慧鶴(はくいんえかく)(1686〜1769)による
「南無天満大自在天神」バージョンもあります。
こちらはちゃんと梅の枝を持っています。

これは必見!(その21) 

49「北野天神縁起扇面貼交屏風(きたのてんじんえんぎ せんめんはりまぜびょうぶ)」

道明寺天満宮蔵。
その名の通り、「北野天神の縁起を扇面に描いて貼り交ぜにした屏風」です。
縦5枚×6面×2つ=60枚の画面に、ごくごく短い説明文と対応する絵が描かれています。

北野天神縁起扇面貼交屏風

(写真提供:九州国立博物館)


通常、「扇面屏風」と呼ばれるものの多くは、
「扇に貼る紙の形に切った紙を貼りつけた」屏風です。
しかしこの屏風の扇面に画面にはくっきりと折り筋が残っており、
元々は扇に仕立てられたものを、屏風に仕立て直したことが分かります。

一見しただけでは60枚すべてが同じ時期に描かれたように見えますが、
一部色調が薄く白味を帯びたものがあり、
それらは後世に追加で制作されたもののようです。

現在は右上から左上へ読み進められるように並べられていますが、
以前は順番などお構いなくバラバラに貼られていました。
それを補修がてら天神縁起の順序に沿って貼り直したのは、つい数年前のこと。
あちらを見てこちらを見るという立ち位置の変更を繰り返した挙句に
腰を痛める心配がなくなったのは、本当にありがたい事です(笑)。

ちなみに、詞書と絵が一致しないものも存在します。
19枚目がまさにそれで、
合掌する貴族を描いた画面構成、
「恩賜の御衣」の後、「天拝山(てんぱいざん)」の前にある位置関係から、
道真から『菅家後集(かんかこうしゅう)』を贈られた紀長谷雄が、
天を仰いで嘆息するシーンである事は間違いないのですが、
「九月十五日に月を見て昔を偲ぶ」うんぬんと、異なる文章がついています。

天神縁起を読むと、長谷雄が贈られた詩のひとつとして、
9月13日に道真が詠んだ詩を引いているので、これを指しているようですね。

これは必見!(その20) 

87「十一面観音菩薩立像」

道明寺(どうみょうじ)(大阪府藤井寺市)蔵。国宝。
平安時代初期(9世紀初頭)、
一本の木から彫り出す一木造(いちぼくづくり)の手法で作られました。
会場では道真が作ったと説明されていますが、
前の世代の人間が発願してプロに彫らせたものでしょう。

完成度は非常に高く、仏像マニア御用達の奈良国立博物館あたりで
観音像の特別展を開いたら、まず個別にオファーが掛かると思います。

十一面観音菩薩立像

(写真提供:九州国立博物館)


これが道真展を開くたびに目玉として登場する理由は、2つあります。

ひとつは、天神の本地仏(ほんちぶつ)が十一面観音菩薩とされること。

奈良時代末期から明治時代初頭まで、
日本の神々はさまざまな仏が別の姿で現れたものとされてきました。
これが本地垂迹(ほんちすいじゃく)説で、
おおもとの仏を本地仏と呼びます。

天神の本地は文殊(もんじゅ)菩薩だとされたこともありましたが、
比較的早い時期から観音菩薩の化身と見なされてきました。
ただ、なぜ観音の中でも十一面なのか、という問いに対して
明快な解答を打ち出した人はいなかったと思います。

そして道明寺が菅原氏の氏寺であること。

もともと、この寺は土師寺(はじでら)という名前で、
土師(はじ)氏によって飛鳥時代に建立されました。
その土師氏の一支流が菅原氏です。
奈良時代末期、桓武(かんむ)天皇の時代に、
道真の曾祖父らの申請によって改姓しました。
当時一族が住んでいた地名「菅原(すがはら)」に由来しますが、
現在でも、奈良市内にその名前は残っています。

菅原氏の氏寺としてはもう一つ、
平安京郊外の吉祥院(きっしょういん)がありますが、
こちらは道真の父親の代に建てられたので、
時代はぐっと下がります。

明治の神仏分離令を受け、道明寺は神社と寺院に分離しました。
両者合わせての規模も、往事よりはずっと小さくなっています。

道明寺


十一面観音そのものは毎月18日に一般公開されていますが、
厨子(ずし)の中だと、なかなか細かい部分までは見えないもの。
仏像を心ゆくまで鑑賞できるのは、博物館のメリットです。
ただ、今回は背中の壁が半円形になっているので、
背中側がほとんど見えませんでした。それが残念なところです。

これは必見!(その19) 

20「和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)」 (〜11/3)

平安時代中期に藤原公任(ふじわらのきんとう)が編纂した、
季節別・テーマ別の和歌と漢詩文のアンソロジー。
TPOに応じた一節を当意即妙に口ずさめるのが、格好良い貴族の条件のひとつなのです。

和漢朗詠集

(写真提供:九州国立博物館)


展示されているのは、巻上の末尾部分、「帰雁」から「仏名」まで。

一番下に作者名が書かれているので、そこを見ておきましょう。
「白」が白居易(はくきょい)、「菅(丞相)」が道真。
あと「紀納言(きのなごん)」「藤篤茂」「醍醐御製(だいごぎょせい)」なども
ありました。「藤篤茂」は道真の弟子、藤原篤茂(ふじわらのあつしげ)のこと。

「紀納言」は紀長谷雄(きのはせお)。道真と同じ年の弟子ですが、
後半生における親友でもあり、『菅家後集(かんかこうしゅう)』の原型本
『西府新詩(さいふしんし)』を託された人物です。