道真作という伝承を前面に押し出して展示した道明寺のみならず、
鎌倉・神武寺(68)、佐賀・大興善寺(88)からも十一面観音像が搬入されており、
会期を通じて会場に座っておられたので、不思議に思う方も少なくなかったようです。
ところが、これらの仏様、実は明治初頭まで、
神武寺の観音像は荏柄天神社、大興善寺の観音像は太宰府天満宮に、
それぞれ天神の本地仏として安置されていました。
(写真提供:九州国立博物館)
左から順に、荏柄天神社の立像(67)・坐像(66)・神武寺の十一面観音像(68)。
本来の形に沿って並べ直すと、このような形になります。
右端は大興善寺の十一面観音像(88)。
その前提となる神仏習合については十一面観音で触れましたので、
今度は道真本人の観音信仰のルーツについて書こうと思います。
図録145ページでも触れられていますが、道真は熱心な仏教信者でした。
仏像を造り、写経に励み、
宿願叶って菅原家の仏事たる吉祥悔過(きちじょうげか)の月に亡くなった祖父、
病床においても念仏読経を怠らず、吉祥悔過についてのみ遺言を残した父、
危篤に陥った幼い息子の命を救うべく観音像を造る事を発願(ほつがん)した母。
母親は臨終の席で道真に告げました。
生死の淵をさまよったそなたが今生きているのもひとえに観音菩薩のおかげ、
自分が果たせなかった観音像造立の誓いを果たして欲しい、と。
その後、道真は費用を工面するため節制に励みました。
その間に父親も亡くなり、
父親の遺品である妙法蓮華経と母親の遺言に従って造った観音菩薩像を前に、
ひとり法華八講(ほっけはっこう)の日を迎えました。
母親の死から9年9ヶ月後、37歳の時の話です。
道真と仏教の話を書くと非常に長くなってしまうので詳しくは述べませんが、
母親から受け継いだ観音信仰は、大宰府においても途絶える事はありませんでした。
最晩年の漢詩の中でも、衰・老・病の後に必ず訪れる死を前に、
あらゆる災厄から人を救うとされる観音の力にすがろうとして
観音経(法華経普門品)を唱える自己の姿を描いています。