これは必見!(その34) 

37「北野天神縁起絵巻(承久本)」 (10)巻3「紅梅別離」

901年2月1日、道真は慌ただしく都を出立する事になりました。
出発を前に、自宅の梅に惜別の情を込めてこう呼び掛けました。

  東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな

この歌に感応した梅は、やがて一夜で海を越え、大宰府に着いたとされ、
現在も太宰府天満宮に咲く飛梅(とびうめ)のルーツになっています。

こう書くと、「『春な忘れそ』ではないですか?」という声が必ず上がります。
ただこれを説明すると長くなるので、今回は控えたいと思います。
一言で書けば「とりあえず『拾遺集』を見て下さい」となりますね。

これは必見!(その33) 

37「北野天神縁起絵巻(承久本)」 (9)巻3「法皇佇立」

901年1月25日、右大臣菅原道真を大宰権帥(だざいのごんのそつ)に左降する
宣命(せんみょう)が出されましたが、宇多法皇がそれを知ったのは数日後でした。

醍醐天皇に翻意を促そうと、法皇は慌てて内裏に駆けつけます。
しかし厳戒態勢の宮中には、どうしても立ち入る事ができませんでした。

木のかたわらでなすすべもなく立ち尽くす法皇。
その前にひれ伏すのは、蔵人頭(くろうどのとう)藤原菅根(すがね)です。

彼は道真の弟子ですが、天皇の即位前からの側近でもあり、
忠実な官房長官として職務をまっとうする道を選びました。
この直後、法皇の参内を妨げたとして、大宰府に左遷されますが、
あくまで形式上の措置であり、すぐ京官に復帰しています。

これは必見!(その32) 

37「北野天神縁起絵巻(承久本)」 (8)巻3「行幸密議」

会期後半に展示されるのは巻3と巻5。今回から順番にあらすじを書いてゆきます。

醍醐天皇は父宇多法皇の御所を訪れ、両者の間で極秘会議が開かれました。
その結果、呼び出されたのは左大臣藤原時平ではなく、右大臣菅原道真。

「そなたを関白に任じようと思う」。

この言葉に道真は驚愕し、ただひたすら固辞するばかりでした。

呼ばれた口実を作るため、道真は詩の題を賜ってから公卿の控え室に戻りましたが、
自分を差し置いて呼び出された事に対し、時平は不満の色を隠せませんでした。

行幸密議

(写真提供:九州国立博物館)


道真を関白に任じようとしたが、未遂に終わったという話は、
安楽寺の巫女の託宣に出てきますが、真偽の程は定かではありません。

ただ、「寛平御遺誡」の内容でも分かるように、宇多院と道真の君臣関係は、
あまりに親密すぎて周囲の邪推を買う余地があったのは事実です。

展示部分は行列に従う人々の姿が延々と続きますが、本題は左端にちょっとだけ。
室内に座す天皇と法皇の前に、平伏する正装の道真。

この無意味なまでの冗長さが、承久本の特色でもあります。

これは必見!(その31) 

18「菅家後集(かんかこうしゅう)」

大宰府時代の作品を中心とした道真の漢詩集です。全1巻。

道真の作品を読む場合、この作品集、
とりわけ「九月十日」あたりから入るケースが多いと思います。
しかし江戸時代においては、なかなか活字化されなかった事もあり、
知識人にとって「名前は知っているが実際に見た事はない」古典でした。
(それどころか、現代では「名前も知らない」古典ですね……。)

今回展示されるのは尊経閣文庫が所蔵する、前田家甲本と呼ばれる写本。
現存する後集の中で最も良いものとされ、
日本古典文学大系(岩波書店)の底本にも用いられています。

その奥書によれば、もともとの題は『西府新詩(さいふしんし)』でした。
西府とは平安京のはるか西に位置する大宰府のこと。
臨終を前に、大宰府で作った漢詩のうち、
「自詠」から「謫居春雪」までの39首を一巻にまとめ、
都にいた紀長谷雄(きのはせお)へ送ったものです。
長谷雄は異郷に果てた才能を惜しみ、後世にもその名が残るだろうと評しました。

その後、冒頭部に右大臣時代の詩を増補したのが、現在の『菅家後集』です。
道真自身が命名した『菅家文草(かんかぶんそう)』と
対比して名付けられたのでしょう。

最後に手元に残されたもの=漢詩と孤独に向き合った記録なので、
人によっては「消極的」「情けない」という印象を受けるかもしれません。
でも、自分の傷をえぐるような事はなかなか書けないんですよね、普通。

「私はここにいる」。その響きにちょっと寄り添ってみるのも良いものですよ。

これは必見!(その30) 

39「メトロポリタン本 北野天神縁起絵巻』 (2)

アメリカ・メトロポリタン美術館蔵の天神縁起絵巻より、異界巡歴譚の続きです。

太政威徳天(道真)に会った際、
道賢(どうけん)は「日蔵(にちぞう)」という名前を与えられます。
その後仏教世界を巡り、地獄の入口にたどり着きます。

メトロポリタン本

(写真提供:九州国立博物館)


燃えさかる業火を前に、茶色の着物を着て合掌している山伏が日蔵。
頭や尾がいくつもある巨大な動物は、地獄の門番です。

さて、その地獄には出家したはずの醍醐天皇が堕ちていました。
衣装はいちおう身につけていますが、頭には何もかぶっていません。
頭にカブリモノをせず、もとどりを人目にさらすことは、
平安時代の貴族にとって非常に恥ずかしいことなのです。
後ろに従う3人の男性は、全裸なのか、すでに体中がすすけて誰か見当もつきません。

炎の中、醍醐天皇は日蔵に告げます。
「道真を左遷し、父親(宇多法皇)を裏切り、弟(真寂法親王=斎世親王)との仲を
 裂いたことでこのような目に遭っている。
 どうか息子(朱雀天皇)に写経をするよう伝えてほしい」。

現世に帰った日蔵は、このメッセージを朱雀天皇に奏上したのでした。

この物語、兄弟を殺して皇帝となった唐の名君・太宗(たいそう)が、
死後地獄に堕ちたという中国の説話を元に作られた話と言われています。