これは必見!(その29) 

41「松崎天神縁起絵巻」

重要文化財。防府(ほうふ)天満宮に奉納され、現在までそのまま伝わっています。
通常は境内の宝物館で展示するところ、
補修のため、現在は京都国立博物館に預けられています。

松崎天神縁起

(写真提供:九州国立博物館)


ごくたまに京博の常設展に出るのですが、
肝腎の京博が年末から建替工事に入るため、しばらく一般公開はお預けです。

松崎本は物語が完結している上に色彩も良く残っています。
また、絵巻物の全集類に収録されているので、図書館で手軽に見る事ができます。

天神縁起は冒頭部分の言い回しで大きく4つに分類されます。
そのうち、承久本、あるいはそれに先行する文字のみの天神縁起(建久本・建保本)は、


王城鎮守神々多くましませど、北野の宮の利生(りしょう)殊に優れて、
朱(あけ)の玉垣に再拝する人、現当(げんとう)の願ひ、
歩みに従ひて道一念を致して、……


とあるのに対し、松崎本や弘安本(図録40、重要文化財)は、


漢家・本朝霊験不思議一にあらざる中(うち)に、
北野の天満大自在天神の御事、在世・滅後、奇特はなはだ多し。……


となっています。

前者の方が古い形ですが、
後者は縁起本文・絵の構図ともに定型化してこなれた形を持つため、
天神縁起絵巻の入門編として非常に向いています。

弘安本

(写真提供:九州国立博物館)

10/26まで展示されていた弘安本の冒頭部。
図録ではなぜか最初の1行がカットされています。


さて今回展示されるのは、「紅梅殿別離」と「恩賜の御衣」という王道路線です。

大宰府下向を目前に控え、
軒端に咲く紅梅と山桜(もちろん桜の季節では到底ないのですが)に向かい、
右から左へ流れる絵巻のセオリーに逆らって画面左から右方向を見やる道真。

硯箱を前に、御衣を左に置き、袖で目頭を押さえる道真。

華やかな植物の描写とは裏腹に、どこか一抹の寂しさを感じさせる筆致です。
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これは必見!(その28) 

51「束帯天神像」

荏柄天神社の誇る(?)巨大な「雲中(うんちゅう)天神」の掛軸です。
幅135cm、高さ189.5cm。いわば実寸大の天神画像です。

アイキャッチ的な飾られ方をするだろうと期待していたら、
予想通り、観世音寺梵鐘の次、展示室の入口すぐの場所に展示されていました。

束帯天神

(写真提供:九州国立博物館)


雲中天神については先に書いてしまいましたので、宣言通り昔話をします。
「懐古談なんかどうでもいいから、次の展示品を出せ!」という前向きな方は、
下の文章は無視して1日だけ待って下さい。明日があります。

2001年7月10日午前8時30分、
東京上野・東京国立博物館付近に、10数名の若者達が集まっていました。
彼らのお目当ては、この日から始まる特別展「天神さまの美術」。

その中に、格安のツアーバスで上京した筆者と、首都圏在住のY先輩の姿がありました。
少しずつ、少しずつではありますが、次第に増えていく人を、
穏やかとは言いがたい朝の陽光を木陰に避けつつ眺めながら、ぼそりと一言。

「せっかくなので一番乗り狙いますが、どうします?」

この年の春、特別展「北野天満宮神宝展」の初日に京都国立博物館に行ったところ、
正面入口でただ一人待っているうちに開館時間になったという顛末がありました。
それに対し、待ち伏せ組が出揃う状況に、俄然やる気になったのです。

「いや、後からゆっくり行くので……。頑張ってね」

そんな遠慮深い声援(冷静な反応?)を背に、門の付近に陣取りました。

午前9時前、開門。
周囲を無視してスタートダッシュを掛けたはずが、
目の前をさっそうと駆けてゆく女性がひとり。
ええ、自慢じゃないですが、情けない程足が遅いです。

「こんな馬鹿げた事を考える奴が何で他にもいるんだ〜!?」と心の中で叫びながら、
「ああ、やっぱり徒競走では勝てそうにない……」と自分の身体能力を嘆きながら、
それでも必死で後をついて行くと、
「ここから入ると遠回りになるので、○○から入って下さい」
という看板が目に入りました。
前方の彼女は、「遠回り」と指摘された、その道へ走っていきます。

「これって逆転勝ちかも……!」
ガッツポーズを取りたい気持ちをこらえ、一見大回りに見える近道に突入。
果たせるかな、会場入口に最初にたどり着いたのは筆者の方でした。
まあ相手の失着で勝ったようなモノなので、あんまり自慢にはなりませんね。

取りあえず所定の目的は果たしたので、入口で先輩が来るまで待機。
ごく普通に徒歩でやってきた先輩と合流し、意気揚々と会場に入ると、
さっそく出迎えてくれたのは、この絵だったのです。

「ええ、来ましたよ、道真さん!」
絵を前に、そう言い切ってしまいたい気分でした。

特別展の前日に開会式と内覧会がある事を当時は知らなかったので、
こんなふざけた先陣争いを本気でやっていたのですが、
開会式に招待されれば人より早く見られることを覚えた今は、もうやりません。

これは必見!(その27) 

58「天神名号および束帯天神像」

後陽成(ごようぜい)天皇(1571〜1617)の「南無天満大自在天神」の文字と、
福岡藩主黒田綱政(つなまさ)(1659〜1711)の束帯天神の絵のコラボです。
地元ネタではありますが、
つい最近まで福岡市立博物館で黒田長政展をやっていたのとは、
おそらく無関係でしょう。

天神名号および束帯天神像

(写真提供:九州国立博物館)


1世紀前の後陽成院の宸筆(しんぴつ)(天皇の直筆)を入手して
綱政は大喜びで自ら絵を描き、その上に宸筆を貼りました。

江戸時代ともなると、落ち着いた表情で梅と松を背に上畳の上に座す、
定型化した姿で描かれてはいますが、
それでも笏を上から押さえ付けるしぐさだけは、記号として残っています。

天神は連歌の守護神としても知られ、
宮中でも毎月25日に北野法楽連歌(きたのほうらくれんが)が催された記録があります。
この軸も、福岡藩主が主催する正月の連歌の席で実際に掛けられていたとのことです。

天神名号

(写真提供:九州国立博物館)

なお、会期前半には、北野天満宮が所蔵する別の宸筆が単体で展示されていました。
(画面右)

これは必見!(その26) 

80「天神名号(てんじんみょうごう)」

第一印象は「このヘラ書きのような字は何?」だったのですが、
かの林羅山(はやしらざん)の師、藤原惺窩(ふじわらのせいか)の筆跡でした。
日本における儒学の先駆者の字を、一瞬でも「変」だと思うとは、何たる無学。

天神名号

(写真提供:九州国立博物館)


この文字列は「南無 天満大自在天神(なむ てんまんだいじざいてんじん)」と読みます。
「南無」は「信仰する」という意味の仏教語。
ほら、「南無 阿弥陀仏(なむ あみだぶつ)」とか
「南無 明法蓮華経(なむ みょうほうれんげきょう)」とか唱えますでしょう?

シヴァにして観音の化身たる大自在天(だいじざいてん)の名を冠するように
天神信仰は当初から仏教色が強いのですが、
天神名号がことごとく同じフレーズで書かれていることを目の当たりにすると、
やはり神仏習合の産物だったんだと思わされます。

これは必見!(その25) 

10「寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)」 (〜11/16)

宇多天皇が息子である13歳の醍醐天皇に譲位した際、
天皇としての心構えを書き与えたもの。重要文化財です。

時平や道真の評価について述べた箇所を中心に展示されています。
現在は書き下しの抜粋が貼られていますので、該当箇所を探すのは楽だと思います。

寛平御遺誡

(写真提供:九州国立博物館)


詳しい内容は「山陰亭」で書きましたので、
ざっと箇条書きにしますと、「左大将藤原朝臣」こと時平は、

  • 功績ある臣下の子孫で、臣下の筆頭である(←藤原摂関家の嫡流)
  • (27歳と)若いが政治に熟達している
  • 去年女性問題を起こしたが、責めず、むしろ励ました

とあります。また「右大将菅原朝臣」道真は、

  • 偉大な学者で政治にも明るい
  • 自分をいさめたので、序列によらず登用し、功績に応えた
  • 醍醐天皇を皇太子に選んだ際、唯一の諮問相手だった
  • 譲位を内密に打診した時、時期尚早だとして猛烈に反対された
  • 譲位の準備中に情報が漏れたが、延期せずに決行するよう勧められた
  • つまり自分の忠臣ではなく、新帝の功臣である

とのこと。

時平については血筋どころか失態にまで言及しているのに対し、
道真はその能力以上に「皇太子の選定」「譲位時期の決定」という、
重大事項にただ一人関わった人物である事を明らかにしています。

それだけ信頼に足る人物であると宇多天皇は考えていた訳ですが、
裏返せばキングメーカーにもなりかねないという事。

朝廷の中枢部を二部する藤原氏や源氏が知れば、
「我々のような家柄の高い者を差し置いて、なぜあの学者上がりを!」
という反応を巻き起こしますし(実際そうなりました)、
醍醐天皇との信頼関係が宇多天皇に対するほど強固でなければ、
「あいつ裏側で一体何をやってるんだ……?」
という疑惑を持たれかねません。

どなたの説だったか忘れてしまったのですが(重要な事なのに!)、

「時平の身内の女性が醍醐天皇の皇子を生んでしまわないうちに
 次の皇太子を立てようと宇多上皇が考え、
 弟宮斉世(ときよ)親王がその候補に挙がったのを知り、
 醍醐天皇が先手を打った」

のが道真左遷の背景ではないかとの見解を最近読みまして、
藤原穏子(時平の妹)の入内をめぐって宇多と醍醐が対立していたことを考えると、
それも充分考えられる線だと思いました。

相手が目上だろうが迎合せず、大局的見地に立って、
良いか悪いか、反対か賛成かを決める道真のスタンスは、
いかにも理想的な臣下の姿ではありますが、
「天皇のお気に入りの側近」という部分がクローズアップされると、
非常に危険だなという気がします。