常盤山文庫(ときわやまぶんこ)蔵。何と現存最古の束帯天神像です。
南北朝時代の1360年に製作されました。
笏(しゃく)を上から押さえ付け、眉をつり上げてやや上方をにらむ、
怒り天神の図です。ちょっとマンガチックな顔つきですね。
(写真提供:九州国立博物館)
漢詩と和歌が2首ずつ書き込まれていますが、
上半分の漢詩1首・和歌1首が天神の神詠とされるものです。
まずは漢詩から。
昨(きのう)は北闕に悲しみを被(かぶ)る士となり
今は西都に恥を雪(そそ)ぐ尸(しかばね)と作(な)る
生きての怨み死しての喜び それ我をいかんせん
今はすべからく望み足りて皇基(こうき)を護(まも)るべし
少々長くなりますが、順を追って説明します。
903年に従二位(じゅにい)大宰権帥(だざいのごんのそち)で亡くなった後、
923年に醍醐天皇の命によって右大臣の地位を回復され、正二位を贈られました。
その後、993年になって、朝廷は
子孫である菅原幹正(もとまさ)を安楽寺(現在の太宰府天満宮)に派遣して
正一位(しょういちい)左大臣を追贈したのですが、
左遷につながる「左」という文字が故人のお気に召さなかったようで、
こんな漢詩を書いた紙が忽然として出現したと言います。
たちまちに驚く 朝使の荊棘(けいきょく)を排(ひら)くに
官品(かんぽん)高く加はりて排感(はいかん)成(な)る
仁恩(じんおん)の邃窟(すいくつ)に覃(おお)ふことを
悦(よろこ)ぶといへども
ただ羞(は)づらくは存しても没しても左遷の名
(こんな田舎にまで恩恵が及んで官職を頂けるのはありがたいが、
生前も死後も「左に遷(うつ)される」のはちょっと……、位の意味です。)
挙句の果て、安楽寺の巫女に道真の霊が乗り移って、
「左大臣の位など受けぬ!」と拒絶したので、
さらに太政大臣を贈ったところ、ようやく納得したのか、
巫女の口を通じて上記の七言絶句が得られたという次第です。
(写真提供:九州国立博物館)
45「筑後国北野天神縁起絵巻」巻下より、
正一位左大臣追贈のため安楽寺を訪れた菅原幹正。会期後半に展示されています。
そして和歌。
宵の間や都の内に澄みつらん 心尽くしの有明の月
こちらはとっさに元ネタが出てきませんでした。ごめんなさい。
おまじないの文句として、良く似た和歌が使われてはいるようですが……。
さて、今回、所蔵元として常盤山文庫の名前がしばしば見えますが、
これは菅原通済(みちなり)(1891〜1981 )という実業家の
コレクションを集めた施設です。
同姓のよしみか、父親の代から美術品として鑑賞に耐える
天神縁起・束帯天神像・渡唐天神像などを収集しており、
百貨店で展示を催したこともありました。
ただ、現在は防災上の観点から非公開となっており、
収蔵品は外部貸し出しの形でようやく見ることができます。
最近まとまった形で公開した機会は、
1998年に根津美術館で開かれた「天神さまの美術」ぐらいのものでしょうか。
(没後1100年記念の特別展と同じ題ですが、先行するものであり、全く別物です。)
あと2003年に常盤山文庫の創立60周年記念展がやはり根津美術館でありましたので、
こちらにも出ていた可能性は高いですね。