これは必見!(その15) 

37「北野天神縁起絵巻(承久本)」 (7)未完の縁起絵巻

巻7の冒頭には、道賢(どうけん)が地獄を訪れるシーンがありますが、
いっこうに詞書のないまま、巻8まで延々と地獄と六道の描写が続きます。

絵巻の裏打ちに使われていた下絵には、
天神縁起絵巻の基本的なシーンが、判別が困難なほど薄い墨色で描かれており、
当初はきちんと完結させる予定であったのが、
何らかのトラブルが発生して未完のまま中断したと考えられています。

誰が、何のために、この絵巻を作ろうと考え、なぜ中断に至ったか?
これらの問いに対し、決定的な答えはいまだに出ておりません。

これは必見!(その14) 

37「北野天神縁起絵巻(承久本)」 (6)巻6「落雷災禍」「落飾崩御」

930年の夏は旱天(かんてん)が続き、いっこうに雨が降りませんでした。
そこで6月26日、貴族たちは宮中の清涼殿(せいりょうでん)に集まり、
醍醐天皇の臨席を仰ぎ、雨乞いの実施について会議を開きました。

会議のさなか、午後1時頃に西北の愛宕(あたご)山方面から黒雲が発生し、
一天にわかにかき曇り、平安京は雷雨となりました。
すわ恵みの雨かと喜んだのもつかの間、
午後2時半頃、清涼殿の南西の柱に雷が落ちたのです。

承久本・落雷災禍

(写真提供:九州国立博物館)


この時の被害は建物の損壊に留まりませんでした。

会議の出席者では、
大納言藤原清貫(きよつら)が焼死し、右中弁平希世(たいらのまれよ)が重傷。
隣接する紫宸殿(ししんでん)にいた
右兵衛佐(うひょうえのすけ)美努忠包(みぬのただかね)も即死。
紀蔭連は腹部に、安曇宗仁(あずみのむねひと)は膝にやけどを負いました。

清貫と希世は半蔀(はじとみ)(雨戸の一種)に乗せられて
宮中から運び出され、そのまま自宅へと向かいました。
両家に仕える者たちが悲報を聞いて宮中に殺到し、
いくら制止しても泣き叫ぶ声はとどまるところを知りませんでした。

絵巻では落雷とその被害の話にしか触れておらず、
詞書も非常に短いものとなっています。
そこで歴史書『日本紀略(にほんきりゃく)』の記事により書いてみました。

この出来事を目の当たりにした醍醐天皇は、病に倒れます。
3ヶ月後、回復の見込みもないまま8歳の皇太子寛明(ひろあきら)親王に位を譲ります。
さらに1週間後、病床で出家したその日に崩御(ほうぎょ)してしまいました。

承久本・落飾崩御

(特別展図録より転載)


常寧殿(じょうねいでん)に読経の声が低く響きわたり、諸臣が涙をぬぐう中、
画面左上で仰向けになった醍醐上皇は、もうろうとする意識の下、
僧侶にカミソリを当てられています。これが延喜親政の終焉でした。

この光景を最後に、巻6は幕を閉じます。

これは必見!(その13) 

37「北野天神縁起絵巻(承久本)」 (5)巻6「公忠奏上」

923年、皇太子保明(やすあきら)親王と時期を同じくして、
源公忠(みなもとのきみただ)という人物が急死しました。
ところが、彼は2〜3日後に息を吹き返し、「内裏に連れて行け!」と口走りました。
息子2人は訳の分からないまま父親と共に内裏に参上したところ、
公忠が醍醐天皇に報告した内容は、恐るべきものでした。

「冥府(めいふ)にたどり着いたところ、
 束帯姿の大男が黄金の文ばさみを手に、陛下の非道を切々と訴えておりました。
 30人あまり役人が居並ぶ中、その内のひとりが薄笑いを浮かべて、
 『今の帝は愚か者ですが、改元でもしたらどうしましょうか?』と口にしたのです。」

「束帯姿の大男」が道真だと察した醍醐天皇は恐れおののき、
道真を右大臣に戻し、正二位(しょうにい)を追贈しました。
さらには道真を左遷した時の詔書を焼き払い、
「延喜(えんぎ)」から「延長(えんちょう)」へと改元しました。

承久本・公忠奏上

(特別展図録より転載)


階(きざはし)に登り、顔を伏せたまま事の次第を奏上する公忠。
左上隅では、普段着姿の醍醐天皇が不安気な表情で聞き入っています。

公忠が急死した話は虚構かも知れませんが、醍醐天皇の取った行動は史実です。
愛息保明親王の死が、道真の祟(たた)りによるものだと世間は噂しました。
詔(みことのり)から年号まで、道真の左遷につながるものを一掃し、
保明親王の息子を皇太子に据えましたが、
新皇太子も2年後にあえなく亡くなってしまいます。

そしてさらに5年が経過した年の晩夏、未曾有の椿事が宮中を襲います。

これは必見!(その12) 

37「北野天神縁起絵巻(承久本)」 (4)巻6「時平病臥」

源氏との共闘で道真を政界から追い落とした左大臣藤原時平(ときひら)ですが、
それからわずか8年後、909年4月4日に39歳の壮年で亡くなってしまいます。

普通に長生きしていれば、政治家としてそれなりの評価を受けられたところ、
摂関家の本流は同母弟忠平(ただひら)に奪われ、
道真左遷の首謀者として責任を一身に背負わされ、
今なおただの悪役扱いで、割に合わない人生になってしまいました。

承久本・時平病臥

(写真提供:九州国立博物館)


ここに描かれたのは、その時平が亡くなった日の話です。

投薬治療も祈祷も効果がないので、時平は三善清行(みよしのきよゆき)の息子である
浄蔵(じょうぞう)を呼び、祈祷を行わせました。

昼過ぎに清行が見舞いに訪れると、時平の両耳から蛇が首をもたげています。

承久本・時平病臥

(特別展図録より転載)


画面右端に座すのは三善清行。右下隅で祈っている僧侶が浄蔵。
相対して病床に臥す時平の両耳には蛇の姿が描かれています。

蛇は清行の姿を認めた途端、こう一喝しました。

「帝釈天に怨敵(おんてき)を討つ許しを得たというのに、
 貴殿は息子に私を調伏(ちょうぶく)させる気か!」

清行は慌てふためき、別室にいた浄蔵に祈祷を中止するよう伝えました。
(絵巻では同席していますが、護摩壇を使うため別の場所になります。)
浄蔵が席を立った途端、時平は息絶えてしまいました。

甥の皇太子保明(やすあきら)親王は21歳で急死。
孫の皇太子慶頼(よしより)王は5歳で夭折。
長男の八条大納言・保忠(やすただ)は47歳、
三男の枇杷(びわ)中納言・敦忠(あつただ)は38歳で早世し、
長寿を誇ったのは、質素な生活に徹した
次男の富小路(とみのこうじ)右大臣・顕忠(あきただ)ばかりで、
本院(ほんいん)の血筋は時代に埋没しました。
この辺の話は『大鏡』に詳しく述べられていますので、
関心を持たれた方はご一読下さい。天神縁起の元ネタの一部になっています。

これは必見!(その11) 

37「北野天神縁起絵巻(承久本)」 (3)巻4「配流陸路」(その2)

わざわざ長文を引いたのは、もう一つ理由があります。
後半が道真の「楽天(らくてん)が『北窓(ほくそう)の三友』の詩を読む」を
そのまま引いている事は一読するとすぐ分かるのですが、
実は前半も「意(こころ)を叙(の)ぶ、一百韻(いっぴゃくいん)」という漢詩を
下敷きに書かれている文章なのです。

「生涯に定地なく、運命は皇天にあり」の絶唱から始まる1千字もの長編を
かいつまんで意訳すると、このようになるでしょうか。

生涯に定めなどなく
運命は天のしらしめすところ
思いもよらなかった 大宰府に赴任することになるとは……
右大臣の名は なぜ左遷にすり替わったのだ?
塵よりも軽く引きずり下ろされ
弓のように急激に放り出された
恥じ入る事を繰り返して 厚顔無恥となり
踵(くびす)を返す暇(いとま)もなく追い払われた
年老いた召使いは いつも杖にすがっている
疲労した馬には 何度も鞭(むち)を打つ
分かれ道に来ると 腸(はらわた)ははち切れんばかりに痛み
都城の門を遠望すれば 目に穴があく思いだった
朝露にまぎれて涙を流し
ホトトギスにかこつけて嗚咽(おえつ)する
     (中略)
害悪を加えられる事は避けようがない
だが汚名は雪(そそ)ぎたいと思う
邪悪なものが正義に勝ったためしはない
それとも真実は虚構に取って代わられるのだろうか?
     (中略)
同病相哀れむ友を求め
辛さを分かち合える故人を探し求める
才能はとうとう行き詰まり
富は結局のところつまづくもの
傅説(ふえつ)は宰相になる前は傅巌(ふがん)で杵(きね)を振るい
范蠡(はんれい)は湖に小舟を浮かべて越(えつ)を去った
賈諠(かぎ)が左遷された長沙(ちょうさ)の地は湿気が多く
屈原(くつげん)が身を投げた湘水(しょうすい)は水が巡り流れる
従二位(じゅにい)を授けられ 私は無意味に位ばかりが高くなった
誰を後任として数合わせの右大臣に据えたのだろうか
親友は食物を分け与えてくれ
親戚は衣服を洗ってくれた
すでに生きる辛さを慰められてきた
どうしてすぐにでも死にたいなどと考えようか?
     (中略)
運命の転変を恨むつもりはない
人生の辛酸は前世からの因縁
少しずつ快楽を捨て
徐々に生臭いものを遠ざける
合掌して御仏に帰依し
心をめぐらせて禅を学ぶ
果てしない今の欲望を嫌い
先人の真実の悟りを敬(うやま)う
     (中略)
世間とはますます疎遠になり
家から手紙が届く事もない
やせて帯がゆるくなり 紫色の服は色あせてしまった
鏡を見ると白髪頭が嘆かわしい
今の心境は 雲の合間を縫って飛ぶ雁(かり)
木にしがみつく蝉のように 寒々とした声で鳴く
蘭の香りが損なわれる秋になり
九回満月を迎えた
     (中略)
責任は千斤(せんきん)もの巨石より重く
立場は万仞(まんじん)の淵(ふち)に臨むように危ういものだった
大臣大将を兼ねて仰ぎ見られる立場になったが
人には功績も知識もないと口を揃えて言われた
     (中略)
つたない器ながら帝に重用され
つまらぬ小舟ながら補佐して大いなる川を渡った
国家の恩徳に応えられぬまま
辺境でのたれ死にしてしまうのだろうか
     (中略)
私に対する処分は法律の規定よりも厳しい
功績を石に刻み 後世に伝えられる事もなくなった
忠誠を誓い 君主の鎧(よろい)となろうとした事を後悔している
加えられた刑罰は 矛(ほこ)を振り下ろされるよりも辛い
取るに足りないかやぶきの貧居
陰鬱な海のほとり
私の住まいはこれで充分
この地が終焉の地になるのだろう
たとえ羊〓(ようこ)の魂が 故郷の〓山(けんざん)を慕っても
遠く離れた燕(えん)の地に埋葬されたら 彼はどう思うだろう
禍福はあざなえる縄だと思い知らされた
運命を占うつもりなどない
思いのたけを一千文字に込めたところで
誰が哀れんでなどくれようか

3分の1程度でも、すさまじい量ですね。
絵巻の詞書との対応を考えれば、書き下しの方が良かったかも知れません。
道真の慟哭が通じなくなる可能性は極めて高いのですが……。

承久本・配流陸路

(特別展図録より転載)


前の簾(すだれ)を巻き上げているのは、護送されていることを示すもの。
衆目にさらされるのは、堪え難い屈辱であったことでしょう。
実際、「意を叙ぶ」には、道中にあふれ返る野次馬を前に、
「胸焼けをこらえきれずに吐き、身も心もぼろぼろになった」という
趣旨の記述が見えます。

なお、展示されてはいませんが、巻4は以下のように展開しています。
船で瀬戸内海に乗り出す道真一行、
大宰府で秋を迎え、醍醐天皇から頂いた衣を前に涙に暮れる道真、
そして彼の死を受けて届けられた漢詩を前に天を仰ぐ紀長谷雄(きのはせお)。

巻1から始まった生前の物語は、ここで一旦結末を迎えます。

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